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本間 季里 さん

母との葛藤を生き抜いて、人生は第4章へ

わかりやすく明快な口調で、苦しかったはずのこともポンポンと話す本間さん。本間さんのお話を伺っていると、どうしてこんなに強いんだろうと敬服の念が湧いてくる。子どもを強くコントロールしようとする母、象牙の塔での理不尽とも言える体験など、次々と降りかかる困難から逃げることもなく、潰れることもなく、悪びれることもなく、それらにど真ん中から挑み続け、全ての結果を引き受け、そしてあっけらかんとしている。医師という、誰もがなれるわけではない仕事につき、その中で周りの医師の誰もがNOと言うことを実現し、さらに免疫学の基礎研究で世界的な成果を上げるも、それらをあっさりと手放す。これからの人生は「第4章」だという本間さんは、一人一人の人に寄り添いながら、「人生、捨てたもんじゃないよ」と伝えたいという。そんな本間さんのストーリーを聞いていると、「世の中は捨てたもんじゃない」と思えてくる。
本間さんは、なぜ医師になったのですか?
両親の強い思いからです。母自身がもともと医師になりたかったらしいのですが、戦時中育ちでできなかったということで、姉か私のどちらかをさせたいと思ったようです。父も同じ考えでした。
私が子どものころ、ちょうどテレビでアメリカの脳外科医を主人公にした『ベン・ケーシー』というドラマをやっていたのですが、母はそれを見ては、「素敵ね。」「あこがれるわね。」と言い、子供の私にとってはいつの間にかそれが無言の圧力になりました。でも姉はあっさりと母の期待を裏切りました。彼女は母にNOと言える人だったんです。姉は母の言うことは聞かず、家ではいつもバトルがありました。姉はついに親の反対する結婚をして、家を出て、その後一度も家には戻りませんでした。私はそんな家の中のいや~な感じに耐えられず、なんとか自分がその雰囲気を中和しようとして頑張っていました。けれど、何をしてもその雰囲気を変えることができず、「自分がどんなに頑張っても無意味なんだ。自分はこの家にとってどうでもいい存在なんだ。」と無力感が募っていきました。「将来はお医者さんになりたい。」というのも、家の雰囲気をよくしたい気持ちから母の期待を先読みして、小学校の時に言ったのです。そうしたら母はその言葉を盾にして「自分で決めたことでしょう?自分で決めたことには責任を持たなくちゃね。」と言うようになり、私は後に引けなくなっていきました。学校の先生も、当時の私にとっては同じような存在に見えました。途中、キュリー夫人の伝記を読んで、原子物理学に興味を持ち方向転換したいという希望を持ったりしたこともありましたが、その都度、無言の圧力を感じました。それで、抵抗しても無駄なんだという無力感を持つようになりました。これって典型的な学習性無力感ですよね。
仕方なく医学部を目指したのですが、小学校から通っていた私立の女子校は、そもそも外の大学に出る人はおろか、医学部だとか国立大学だとかに行く人自体がいない、受験とはおよそ無関係な学校でした。だから受験勉強は手探りの独学でやり、結局、一浪しました。幸いなことに、一浪して受けた年は共通一次が始まった2年目で、医学部でもユニークな入試をしようということで、二次試験にはいわゆる学科試験はなかったのです。6時間かけて論文を書くほか、集団面接と個人面接がありました。それで、やっとの思いで筑波大学医学専門学群に合格しました。後で聞くと、ユニークな入試だったので、面白い人たちが集まった時代だったようです。
大学入学後からその後の道を選ぶ時はどうだったのですか?
医学部に入学したことで、それまでの人生最大の目的は果たして、私自身はもう燃え尽きてカサカサの灰になってしまったんです。それで、大学の寮から一歩も出ずに一日中テレビを見てぼおっと無為に過ごす毎日でした。何をしたらいいのかわからず、さまよっている感じでした。試験の時は友達にノートを見せてもらったりして、なんとか卒業はしましたし、国家試験にも合格しましたけれど。当時の記憶は実は飛び飛びで、あまり残っていないんです。で、母の「コントロールしたい」欲求は終わるかと思いきや、こんどは「結婚するわよね?」という話になるんです。だからというわけでもないと思うのですが、入学後まもなくから付き合っていた3歳上の先輩と、私が大学6年の夏休みに結婚しました。「松田聖子が郷ひろみと別れて数ヶ月しか経っていないのに、神田正輝と結婚」というニュースにびっくり仰天した勢いで彼に電話し、「だから私たちも結婚しよう」みたいに言ったんです。それで私の学生結婚の生活が始まったのですが、結局、2年半で離婚しました(苦笑)。今思うと、自分という軸がしっかりしていなかったので、誰かと人生をともにするということは無理があったのかもしれません。
小児科の医師時代について教えてください。
私の場合、子どもが好きという理由ではなく、成り行きで小児科の医局に入りましたが、小児科はとても楽しかったのです。楽しかったのは、「着想」をはじめとする私の資質ゆえか、主に2つの理由がありました。1つは、病気の純粋な形を追っていけることです。大人だと、例えば高血圧や糖尿病があって他の病気になるとか、色んな他の病気に重なってまた別の病気が現れるのですが、子供はある日突然ぽこっと単一の病気が発症することが圧倒的に多く、純粋にその病気を見ていけるんですね。もう一つは、小児科だと、乳幼児の頃からその子の社会的背景が変化するのに合わせて、その子の人生に伴走していくことになるのですが、これがとても好きでした。その子の両親との関係も築いて、彼らが悩んでぐるぐるしているのをサポートするとか、その子が学校に入ると、今度は先生やお友達などにその子の病気のことを理解してもらうサポートもします。
たとえば、私の患者さんではなかったのですが、Ⅰ型糖尿病で長く入院していた子のお母さんが暗い顔をしていたので、「どうしました? 元気ないみたいだけど」と声をかけたときのこと。そのお母さんが「うちの子は、注射をしなくてはならないとか、血糖値が下がると飴を舐めなくてはならないとか、クラスに迷惑をかけているんじゃないかと考えてしまって……」と言ったのです。私は「健康な子供だけの集団だと、そういうのが当たり前だと思ってしまうけれど、病気の人や障害を持つ人も世の中にはたくさんいます。そういう子が集団の中にいると、病気のことを肌感覚で理解できます。そうして互いに手助けすることも自然にできるようになる。あなたのお子さんがいることで、周りの子供達も得難い経験をしているんだと思いますよ」と話しました。すると、そのお母さんは「そんなふうに考えたことがなかった」と言ってボロボロと涙をこぼされました。
また、こんなこともありました。筋肉が動かなくなる遺伝性の病気で、生まれてからずっと病院にいるお子さんがいました。そのお母さんは、付添いのためずっと病室に泊まっていて、それだけでも疲れるでしょうに折り紙で兜を折ったり、いつも季節感を病室に取り入れている人でした。私はそういうお母さんが素敵だな、と思っていたのですが、他の医師たちの中には、そのお母さんが長い入院生活の間に何回か病院側に強い要望をしたことがあったらしく、「面倒臭い人」というレッテルを貼っていました。そのご夫婦は、家を建てたのですが、せっかく建てた家で子供が一度も暮らせないことをとても残念に思っていました。一晩だけでもいいから子供を帰宅させたいという両親の希望を知って、私は自宅にその子を帰せないかと思い、何度もかけあいましたが、当時はポータブルの人工呼吸器なんかも簡単に使えなかったし、「何かあったらどう責任をとるのか」ということで、どうしても医局からの許可が出ませんでした。それでも、なんとかならないかと思って、私は休みを使って自腹を切って、他の病院に在宅での呼吸管理のことを聞きにいったり、情報を集めたのです。それで、まずは車を改造したり、ポータブルの呼吸器を借りて近くまで散歩してみたりなどして、3年がかりで家に帰れる環境を整えていきました。そうしたら、3年経った頃に、ついに医局側がOKを出してくれたんですね。それで、私は主治医として付き添いましたが、そのお子さんの1晩の外泊を実現しました。
 こんなふうに、物事をいつも人とはちょっと違う視点から見ていたりするのは「着想」や「個別化」、何か成し遂げたいことがあると、人が無理と言ってもなんとかできる方法を考え出して実行してしまうのは、それらに加え「学習欲」「アレンジ」「責任感」そして「最上志向」などの資質が動くからだと思います。また、様々なお子さんとご家族の伴奏をするのが好きなのは「個別化」や「成長促進」「共感性」などがあるからだと思います。
その後、臨床を離れて長いこと研究もされていましたが、それはどういう思いからですか?
基礎研究がやりたかったからです。大学病院で働いてしばらくすると、学位論文作成のためのテーマというのをもらいます。いろいろなパターンがありますが、私の場合は免疫に関する内容で、実験をして検証をしていくものでした。その時に実験がとても面白いと感じました。自分が見つけたテーマで、まだ誰も知らないことを一つひとつデータを積み重ねて証明していくことが喜びでした。それで、いつか基礎研究をやりたいと思ったのですが、当時実験を教えてくれた先生は「君には無理」と否定ばかりしました。それでそれ以上言い出せずに10年も経ったのですが、40歳を目の前にして「50歳になって、やりたかったことができなかったと言っても、『それは君の選択だったでしょ』と言われてしまうだけだな」と思ったのです。そう考えたら、このまま決められた路線に乗って行くだけの人生はいやだと思い、一大決心をし、「笑われるかもしれませんが、基礎の世界に挑戦してみたいんです」と言って、あちこちに話をして研究職の口を探しました。そして半年くらいかかってやっと長崎大の免疫学教室に行くことになりました。
研究室でやがて自分でも「これだ」と思うテーマを見つけたのですが、教授からは別の研究テーマをやるよう言われました。でも、自分が本当に意味があると思うこと以外はなかなかできないものなんですよね。それで、研究室には内緒で研究をすすめることにしました。知り合いの研究者に助けてもらい、必要な試薬などを外から入手したりしながら、こっそり細々と一人で自分のテーマを研究していました。その研究は、やがてよいデータが取れたところで教授にも言って、学会でも発表しました。その研究テーマを始めてから徐々に研究費を取れるようになり、成果を出せるようになりました。世界的な大きな研究室とも競争になったり、共同研究の道が開かれたり、研究者としての道を切り開いた実感ありますが、この時も自分の資質をフル稼動していたと思います。
世界的レベルの研究室で同じことをやっていることがわかった時には、そこの研究室から私が使っている遺伝子改変マウスを譲ってほしいと言われたことがあります。そういう時には、マウスをすぐには送ってあげないことも結構あるのですが、私はさっさとマウスを送りました。自分なら、すぐにマウスを入手して研究を進めたいと思うだろう、と思ったからです。そんな大きな研究室に、西の果てで一人でほそぼそとやっている自分には勝ち目はないなと思いました。イージス艦に対して、こっちは手漕船で競争に挑んでいるようなものでしたし、周りからは散々「バカだ。お人好しだ」と言われましたが(苦笑)、そこは私の譲れない信念のようなものでした。結局、そこの研究室と私とで、全く同じ時期に成果論文の発表を行いました。ということは、私は少なくとも負けなかった、自分の研究成果はなかなかだったなと思って、これは今でも自慢です。
お母様との関係はその後どうなったのですか?
この間、母との関係では苦しみ続けてきました。10年以上カウンセリングを受け、自分の思いを少しずつ吐き出していきました。そのなかでカウンセラーから、「母にNOと言えたお姉さんも強いけれど、その中に踏みとどまり、つぶれずに生きてきたあなたも強いと思いますよ」と言ってもらったことがありますが、これは大きかったですね。出ていけた姉は強いが、私にはその強さがなかった、とずっと思っていましたから。また「アサーティブ」についても学び、私にはとてもしっくり来る考え方だったので、ついにトレーナーの資格も取りました。その学びの過程で、「相手には相手の理由、事情がある」と仲間が言うのを聞いた時、「ああ、そうなんだ。母には母の理由や事情があるんだ」と気付き、雷に打たれたように思いました。
確かに、母は子供の頃、その両親が何度も結婚と離婚を繰り返しているという特別な環境にいました。なぜ自分の母がふといなくなって、しばらくするとまたふと帰ってくるのか、聞くこともできず、理由を聞かされることもなく、不安の中で生きていたのだろうと思います。だから、自分の家族を持ったとき、家族が自分から離れてほしくない、見捨てられたくないと思ったのも当然かもしれません。それが言葉で何度も何度も愛情を確認したり、家族をコントロールしたりということにつながったのかも、と気が付きました。そんなことを考えると、母への思いが変わっていき、母との関係性が少しずつ変化し、なんとか受け止められるようになりました。そして最後は母を許せたんだな、そういう紆余曲折の果てに、膵臓がんの母を自宅で看取るというところにたどり着いたのかな、と思います。
50歳を過ぎて、これからの人生を改めて考えたとき、長崎から東京に戻ってきました。私自身はずっと実験だけしている一研究者でいいと思っていたのですが、研究室には次々に若い人が入ります。そうすると、私もそれなりにキャリアアップしていかないとならなくなります。人を育てることは大好きでしたが、それだけでは研究室はやっていけません。また、研究はいつまででもやれるものではなく、どこかで終わりにしなくてはなりません。いずれ新しいことを始めるのなら早いほうが良いと、早期退職を決意しました。長崎に行ってから18年が経っていました。
仕事一辺倒だったので、最後は地に足をつけて暮らしたいという思いもあり、地域活動とか、ボランティア、旅などもしたいと思って故郷に帰ってきたのですが、ちょうどそのタイミングで母の膵臓がんがわかり、父と二人で母の看病をしながら自宅で母を看取りました。そして1年半後の2019年、ころんだのがきっかけで食事が取れなくなり、肝硬変が急激に悪化して父も亡くなりました。亡くなるまでの一ヶ月半ほど、突然介護が必要になりましたが精一杯のことができたと思っています。物心ついてから50年以上をかけて悩みながら親を受け止め、受け入れる作業をしてきたわけですが、なんとか最後は親の死に間に合った、そう思います。
「アサーティブ」や「ストレングスファインダー」との出会いで何がかわりましたか?
アサーティブというのは、相手も自分も尊重した上で、自分の責任も認めつつ、誠実に、率直に、対等に、自分の要望や意見を表現するコミュニケーションのことです。
私には、子どもの頃からいつも自分の中に浮かんでくる2つのイメージがありました。一つは小人の私が巨人からダメ出しをされているところ、そしてもう一つが井戸の中にいる自分が上にぽっかりと空いた井戸の口を見上げているところ。井戸端には代わる代わる人が来て、私に微笑みかけるのですが、皆そのまま過ぎていくんです。それでも私は「外に出たいから助けて」とは言えないのです。地上には自分の居場所がない、自分は生きている価値はないと思っていたんですね。そうしたイメージが、アサーティブを学んでいくうちに、いつしか消えていました。自身の自己肯定感が整っていったのだと思います。
アサーティブやストレングスファインダーを学んでいた時期と重なるのですが、父が急に体調を崩して2013年から2015年まで、両親を長崎に呼んで一緒に暮らしていたことがあります。両親を東京から呼び寄せて母と一緒に父の看病をするなかで、私の中ではものすごく強い母との心の葛藤が起きました。でも、母との葛藤に正面から向き合わざるを得なくなって、母娘の関係に変化が起きたのではないかと思います。それまで、私は結構なキッチンドリンカーで、仕事以外の時間はいつもアルコールを飲んでいる生活をしていました。でも、長崎で両親と暮らし始めて半年後のある秋の夕暮れ、「ああ、今日は飲まなくていいや。」とふと思いました。「珍しいな」と自分で少し驚きましたが、その日以降、お酒は必要なくなりました。とても印象的なできごとでしたし、紆余曲折は続きましたけれど、徐々に母娘の関係性は良くなっていきました。
ストレングスファインダー®は初めは友人の紹介で知り、さらに深く学びたくなってギャラップ社のストレングス・コーチの資格を取りました。ストレングスファインダー®で自分の資質がわかると、これまで人と違う見方をする自分に違和感を感じていましたが、それも「自分の持ち味」なんだと太鼓判を押されたように感じ、「いいんだ、これで」と思えるようになりました。そして、過去を振り返って「私だからできたんだ」と思えて、いろいろなことをありのままに受け止められて、生きているのが楽になりましたね。他人が別のやり方をしていても「彼らなりの強みを使っているのだろう。」と寛容になれたし、多様性とか、人と自分の間の境界を引くとか、そういったことも腹落ちしました。
これから、どんなことをしていきたいですか?
様々な理由でストレスを抱えている人の話を、1対1でじっくりと聞いていきたいと思っています。私は、研究職の時から後輩や学生たちにどうしたらやる気を出してもらえるのか、どんな言い方をしたら自然に楽しくなるのか、ということをいつでも無意識に考えていました。そうでなくても基礎研究に進む人は少ないのに、ともすると、周囲のやる気を削ぐ言い方、接し方に心折れて自信を失い、研究の道をあきらめてしまう人も少なくありません。残念でしたね。そこでコーチングやコミュニケーションを個人的に勉強しては「こう言ったらいいんじゃないかな」とこちらの言い方、接し方を色々と工夫していました。ここでも、仮説を立てて検証する、ということを繰り返していたんですね。後輩たちからは「先生は、将来、人にアドバイスしたり、自分の経験を話す仕事をした方がいいですよ」とよく言われたのですが、当時はあまり深く受け止めていませんでした。でも今は「今の仕事のことだったのか」と思います。自分より周囲の人のほうが私のことをよくわかっているものなんですよね。
臨床医、基礎研究者としての人生にも一区切りつけ、両親も看取り、私の人生はこれから第4章に入ります。私の人生は親との葛藤そのものでした。でも、一つ一つの決断は、自分でしてきました。大変なこともたくさんあったけれど、”味わい深い”人生だったと思っています。だから、今苦しんでいる人に、「人生捨てたもんじゃないよ。生きているって素晴らしいよ」と伝えたいな、と思うのです。どうしてもお酒に走ってしまう時があるかもしれないけれど、それもしょうがないんですよ。単純にお酒が好き、という以外の理由で飲んでいる場合は、必要なくなる時はきっときます。そんな”正論”じゃないことも、伝えていけたらいいな、と思っています。今苦しくても、正面から向き合えば「あの時、あそこまで考えてよかった」と思える時が来ると、確信を持って伝えたいですね。
そして、ストレスで押し潰されそうになっている人、へとへとになっている人に、もう一回、自分の人生に折り合いをつけて一歩を踏み出してもらいたいと思います。よろよろでも、元気じゃなくてもいい。でも一歩を踏み出してもらえたら、と思うのです。
インタビューを受けた方
本間季里
プロフィールの詳細は追加予定です。